口笛、高音、低音。
吹こうと思って吹いているわけではなく、気づけば吹いている。
お気に入りの曲から急に思い出した曲まで、どこから影響を受けたのだろう。
口笛を吹く。
気分が良いわけでもテンションが上がっているわけでもなく。
気づけば、時々口笛を吹いている。
歌うわけでもハミングするわけでもなく、口笛を吹く。
高音が上手く出なくて、低音はまったく出ない口笛を。
しばらく吹き続けていると、疲れて飽きてしまう。
曲にではなく、自分に飽きてしまう。
お口直しに、適当にメロディーを奏でてみる。
綺麗に出る音域を中心に、時折高音、時折低音。
どこかで誰かが言っていた。
突然メロディーが降ってきた、と。
誰が言っていたのかは覚えていないけれど、きっと有名なミュージシャンだろう。
音楽には疎い私だけど、もしかしたら。
そんな思いを乗せて適当に吹いたメロディーは、何も残さず消えていく。
もう一度吹いてと言われても、適当だから思い出せない。
私に降ってきたメロディーは、パラつきすぎて何も残らない。
そうして曲にも自分にも飽きる。
思い出せないくせに。
疲れたから口笛吹くのをやめる。
でもまたいつかは吹く。
適当なメロディーを適当に。
私にはそのくらいがちょうどいい。
すくえない、見えない隙間、指の間。
すくおうとしたのに。
たくさん、すくおうと。
でも結局、なにも残ることはない。
手のひらが湿るだけ。
手のひらに乗っかった水は、指と指の隙間から消えてなくなった。
一度でどれだけ多くの水をすくえるのか。
そんなことばかり考えていて、いろんな方法を試してみた。
けれども、一度も上手くいかなかった。
そんなこと考えなくてもよかったのに。
今ならそう思える。
どんなにがんばっても、指と指の間には隙間が生まれる。
隙間がないように見えても。
見えない隙間は存在する。
こぼれ落ちて、すべり落ちて。
時間が経てば、手のひらが湿って終わるだけ。
すくいたくても、すくえない。
適当に水をすくえば、それだけで顔をすすげる。
それだけで渇いた喉を潤せる。
それだけで流した涙を拭きとれる。
どれだけすくおうとしても、見えない隙間からこぼれ落ちる。
なにもすくえないまま。
濡らした頬を濡れた手のひらで撫でるだけ。
なにもすくえないまま、乾くだけ。
だから、もう欲張らない。
すべてをすくおうだなんて。
すくえたぶんだけで、十分だから。
隠したら見たくなるのが人間の性。
なんだかいつもよりからだが熱い。
息苦しい。
体調は悪くないし。
いつもよりあったかいといってもまだ冬だし。
暖房の設定温度だって変わらないし。
どうしてこんなにからだが熱いのか。
この時期、マスクをするのが当たり前になっていて。
マスクは防寒着のひとつなのだと知る。
僕だけじゃなく、君もマスクをしている。
いつもの顔がいつもと違って見える。
バレないようによくこっそり見ているから、君の顔はよく知っている。
いつもの知った顔を少しだけ隠して。
マスクで少しだけ隠して。
君にその気はなくても。
隠せば隠すほどそこを見たくなるのが人間の性。
僕が気に入った君の顔がマスクで隠されている。
君を見ると、なんだかいつも以上にドキドキする。
だからからだが熱いのだろうか。
理由はよくわからない。
誰にも言えない、僕だけの秘密。
バレたらきっと気持ち悪いって思われるから。
理由はよくわからない。
マスクで隠されて、よくわからない。
だから気になる。
この気持ちの正体が、気になってしまう。
あなたが好きだったお酒を飲む。
普段はひとりじゃ飲まないのに。
今夜はひとりお酒を飲む。
なにがあったわけではなく、なんとなく。
具体的な理由があるわけじゃない。
あなたが好きだったお酒。
あなたと付き合っていたとき、一口だけもらって不味くて、それ以来。
どこがどう美味しくてあなたが好んで飲んでいたのかわからなかったから。
今なら少しはわかる気がした。
あえて理由を探すとしたら、そのくらい。
真っ暗な部屋でカーテンを開けたまま。
いくつも明かりが見えるのに、この部屋は薄暗いまま。
グラスを持って口に運ぶ。
不味い。
あのころと同じくらい、不味い。
グラスをテーブルに置く。
やっぱり私はあなたのことを理解できなかったし、できない。
グラスを手に持って立ち上がる。
多少暗くたって、私の部屋だからゆっくり歩くことくらいなんともない。
残ったお酒をシンクに流す。
氷が音をたててはじけた。
ああ、不味い。
そう言いながら冷蔵庫を開ける。
開けたら光がやたらと眩しくて。
目を細めながら、水を取り出した。
うるう年のうるう日は特別か否か。
今日は特別な日。
特別だけど、ただの一日。
四年に一度のうるう年。
四年に一度なんて遠すぎて。
前のこの日がどんな日だったのか、まったく覚えていない。
四年という月日は長すぎる。
過ぎてしまえばこんなにあっという間なのに。
特別なお祝いをするわけでもなく。
一年を一年として成り立たせるための一日。
気づけば君と二度目のうるう年。
このまま次のうるう年まで一緒にいるのだろうか。
終わってしまえばあっという間なのに。
次を迎えるまでと考えると、遥か彼方。
それほどの年月、君と一緒にいたのだと今さらながら実感する。
特別だけど、ただの一日。
そういう日々を君と積み重ねてきた。
特別かどうかは後でわかること。
もしかしたら今日がそうなるのかもしれない。
ただの一日だけど、特別な一日。
答え合わせは、次のうるう年で。
便利すぎて不便な今日この頃。
今の世の中はとても便利。誰かのおかげで、とても便利。
あなたはそう言う。
僕もそう思う。
例えば、あなたが僕と待ち合わせをしていたとしよう。
約束の時間になっても僕はやってこない。
あなたはあたりを見渡すけれど僕の姿は見えない。
元々、あまり乗り気じゃなかったあなた。
僕に連絡して繋がらないかもっと遅くなりそうなら、キャンセルしようとする。
バッグからスマホを取り出したら、ちょうど僕から着信が。
ごめん、北口と南口を間違えたからあと3分で着く。
電話を切ると同時に、あなたは大きく息を吐き出した。
ようやく合流して、ごはんを食べに行こうとする。
なにが食べたい?
僕はあなたに訊く。
なんでもいいよ。
あなたは言う。
じゃあ、ここらへんで美味しいお店は…。
そう言って僕はスマホをいじる。
今から探すの?
あなたはできるだけ平坦な口調で僕を見る。
これが一番信用できるからね。
あなたの視線からなにかをなんとなく感じ取って言い訳がましく笑う。
店構えや雰囲気で決めることは、もうない。
そんなギャンブル、誰もやらない。
美味しいところはすぐに見つかった。
食べてみたら、本当に美味しかった。
美味しいものを食べられたのに、どこか味気ない。
便利だけど、余白がない。
あなたはそう思うのか、思わないのか。
次どこ行く?
私もう帰らなくちゃ。
もう?
うん、ちょっと用事があって。
僕はもう少しあなたと一緒にいたいのに。
用事があるのならしょうがない。
本当か嘘かは知らないけれど。
じゃあ駅まで送るよ。
あなたの隣を歩く。
スピード落とそうとするけれど、あなたは自分のペースを守る。
あと5分で電車が来るから。
あなたはスマホをいじりながら、歩くスピードを上げた。
1本乗り遅れても、すぐに次の電車がやってくるよ。
そんなことを思いながらも、あなたはには言えない。
あなたは思う。
便利な世の中ね。
僕は思う。
便利すぎると不便なんだな。
さよならしたあと、あなたは一度も僕の方を振り返らなかった。
どうせやるなら完全犯罪。
部屋を隅々まで掃除する。
四隅も棚の下も取っ手も天井さえも。
一心不乱に掃除する。
何度も雑巾をとりかえて。
クイックルワイパーは水拭きと乾拭き。
コロコロ転がして、剥いで、転がして。
洗剤はダースで買ったから心配いらない。
指紋ひとつ残らないように。
いらない物はどんどん捨てる。
洋服も食器も、今となってはただの紙くずになったものも。
少しでも迷ったら、捨てる。
あまり記憶にないものだって、どっちかわからないから捨ててしまう。
ゴミ袋は箱ごと買ったから心配いらない。
痕跡が残らないように。
ファブリーズを撒いて。
アロマを焚いて。
すべての窓を開けて、扇風機を回して。
すべての空気を入れ替える。
すべての匂いを取り替える。
すべて消し去る。
あなたが触ったところ。
あなたが座ったところ。
あなたがいたところ。
あなたの匂いがついたところ。
すべて消し去るためにやっている。
実物のあなたも、頭の中のあなたも消し去ることはできないから。
忘れたいあなたのために、罪を犯すことはできないから。
この部屋の隅々まで。
すべて徹底的に、消していく。
あなたの痕跡と一緒に。
私の罪すら、消去する。
のど元過ぎて逆流しそう。
電車に揺られる。
ガタゴト、ゴトガタ。
心地良い、振動とリズム。
睡魔に襲われる。
気持ち良く眠れそう。
完全に身を委ねたい。
でも、寝ちゃダメだ。
寝たらきっと、終点まで辿り着く。
経験上、きっと。
少しでも気を抜いたら、まぶたが閉じそう。
がんばれ。
でも経験上、わかっている。
きっと気を抜く。
そしてやっぱり、気を抜いた。
眠ってしまった。
そして、目が覚めた。
どのくらい時間が経ったのか。
体感では、ほんの一瞬。
緊張しながら流れる景色に目を細める。
アナウンスに耳をすます。
終点までは行っていない。
降りる駅までも来ていない。
奇跡だ。
よかった。
そんな思いはすぐに消えた。
気持ち悪い。
あんなに気持ち良かったのが嘘みたいに、気持ち悪い。
吐きそう。
ここではダメだ。
まだ電車の中。
一点を見つめて集中。
降りる駅まではまだいくつもあるけれど。
扉が開くと、電車から降りた。
トイレまであと少し。
我慢。
急ぐけれど、急いじゃダメ。
刺激を与えすぎないように歩く。
振動とリズムが気持ち悪い。
もう少しも眠たくない。
早く楽になりたい。
さっきまであんなに気持ち良かったのに。
何度も経験しているのに。
お酒は飲んでいるときが一番。
飲んだあと気持ち良いのは一瞬。
のど元過ぎて、逆流しそう。
乾燥、暖房、生まれ変わり。
どこにいてもからだが乾燥する。
いくら暖冬だと言われても、冬はやっぱり寒いから。
出先でも家でも、暖房ばかり。
あったかいのはいいけれど。
どうにもこうにも乾燥してしまう。
乾燥しすぎて、あちこち痒い。
我慢しきれずに痒いところをかいたら。
皮膚が粉みたいになって、こぼれ落ちた。
からだの表面の一番上っ面が、こぼれ落ちる。
一番いろんなものに触れるところ。
一番晒されているところ。
ぽろぽろ、こぼれ落ちる。
見えるものも、見えないものも。
聞こえるものも、聞こえないものも。
感じるものも、感じないものも。
ぽろぽろ、こぼれ落ちる。
どうせなら、すべてこぼれ落ちてしまえばいいのに。
そう思って、もう痒くないのにかきむしる。
痛くなってきた。
そりゃ、そうだ。
でも、すべてこぼれ落ちてしまえばいいのに。
うっすら滲んだ血を拭く。
暖房のないところに行ったら。
まだ冷たい風が吹いていた。
冷たい風が沁みて、血が出るほどかいたことを後悔して。
ぽろぽろこぼれ落ちたものは、どこかへ飛んで行ってしまった。
またどこかへ行く。
暖房の効いたところへ。
乾燥してしょうがない。
いっそのこと、全部剥がれ落ちてしまえばいいのに。
傘泥棒に言いたいこと。
あなたは傘泥棒。
自分が濡れたくないからって人の傘を盗る。
ひどい人。
鍵かけないから、って。
ひどい人。
盗られた方が悪いなんて、いつからそうなったの。
鍵つきの傘立てなんて、そうそうあるものじゃないし。
ついさっきから降り出した雨。
出かけようとしたときにちょうど降ってきたから。
私は傘をさした。
濡れたくなかったから。
あなたと同じ。
傘のないあなたは、私の傘を持って行った。
あなたはどこまで行くの?
そんなに濡れたくないの?
少しくらい濡れたって、少し経てば乾くのに。
濡れたくないあなたは、きっと涙も流したくないのでしょう。
人が濡れるのはお構いなしに。
いつだって自分のことばかり。
ひどい人。
私はどうやって帰ればいいの?
鍵のない傘立てには、傘が3本。
紺色の傘が1本、私と同じビニール傘が2本。
でも、私のものではない。
取っ手が違うからすぐにわかる。
あなたは傘泥棒。
自分が濡れたくない。
ただそれだけの理由で、人の傘を盗る。
私は少しくらい濡れたって構わない。
私は少しくらい泣いたって構わない。
私はあなたとは違う。
小走りで帰って、ほら見ろって言ってやる。
どうせすぐに乾くから。