古本、匂い、折り目。
近所の古本屋に向かう。
ほぼほぼ日課のようなもので、店主ともすっかり顔なじみ。
いらっしゃい。
丸眼鏡をかけた痩身で白髪、初老の男性。
なんだか小説や映画に出てくるイメージ通りの店主。
こんにちは。
挨拶もそこそこに店内を回りはじめる。
本の匂いが充満した狭い空間には。
天井近くまである大きな棚から溢れんばかりの本が、作者別、ジャンル別に綺麗に分けられている。
私がここによく来る理由のひとつ。
雑多なのに整頓されている。
店主のこだわりがよく見える。
毎日のように新たな本が入荷されているのも、理由のひとつ。
それなのに、いつだって綺麗に並べられている。
ほぼほぼ日課のように来ているものだから、大体の本の配置は頭に入っている。
いつもどおり順番に本の背表紙を追っていると、あるところが目に留まった。
私は顔を近づけ、本を手に取る。
昨日までは確かになかった。
あったらきっと気づくはず。
なぜなら。
昔、私が好きだった小説だから。
全然売れていなくて、まわりの人は誰も知らなかった。
それでも私は好きだった。
本を手に取った瞬間、記憶が蘇った。
当時付き合っていたあなたにこの小説を貸したことを。
誰も知らなかったけれど、私の好きな小説をあなたに読んでほしかったから。
今思えば。
きっとそのときも。
まあ、確かに、小説全体はそんなに面白くはなかった。
でも。
ある場面だけは、大好きだった。
別れた男と女が偶然町で再会し、笑い合う場面。
なんてことのない場面。
ありふれた場面。
けれど、あの頃の私に妙に入ってきた。
もしあなたと別れたとしても、いつか私たちはこうなるのかもしれない。
そう思った。
やけに具体的な描写がそうさせたのかもしれない。
今では貸していたことも忘れていたのに。
本が返ってくることなく、あなたと別れた。
別れたあとは、一度も会っていない。
そういえば。
お気に入りの場面が描かれたページの角を折っていた。
何度も読み直した。
ストーリーはあまり覚えていないが、その場面だけはよく覚えている。
私は手に取った本をパラパラとめくり、そのページを探す。
何度も確認して、本を持ってレジへと向かう。
その本、出たときは全然売れなかったけど、いい本だよ。
店主は丸眼鏡の隙間から私を見る。
知ってる。
私は笑う。
今回はすぐ売れたね。それ、今日入荷したばかりなんだ。
店主も笑う。
そうなんだ。
少しだけ鼓動が速くなった気がした。
会計を済ますと、店主との会話もそこそこに。
急ぎ足で店の外へと出た。
あたりを見渡したら、いつもどおりの光景が広がっている。
私は本を取り出して、あのページを開いた。