足を踏み出すタイミング。
通勤ラッシュの駅。
数え切れないほどの人が右に行ったり左に行ったり。
スグルはホームに立つ。
一本乗り遅れたか。
スグルは腕時計に目をやり、舌打ちする。
それでもすぐに次の電車がやってくる。
スグルのうしろには、すでに何人もの列ができていた。
ホームのあちこちで列ができていて、誰もがうつむいている。
スグルは大きく息を吐き出しながら、ホームの反対側を見つめた。
ざわめきに包まれながらも、スグルの頭の中は静かだ。
また今日も一日がはじまった。
起きて、会社へ行って、疲れて帰って、寝て、また起きる。
その繰り返し。
嫌なのかと言われたら嫌だし。
そうじゃないと言われたらそうじゃないし。
誰に言われたわけではなく、これが当たり前だから。
そうでも思わないと、スグルの頭の中はすぐにざわめく。
スグルはそれを知っているから、いつだって頭の中は静かだ。
何かを見ているわけではなく、スグルはホームの反対側に目をやる。
自分のような人がここにはたくさんいる。
スグルは小さく笑った。
すると、ひとりの男と目が合った。
一瞬だけかと思ったが、向こうもじっとスグルのほうを見ている。
初めて見る顔だ。
それなのに、どこか親しみを覚える。
大変ですね。
彼がそう言った気がした。
そうですね。
スグルはそう返した。
声を出してもきっと聞こえない。
ざわめきの中、きっと聞こえない。
それでもふたりは見つめ合い、会話を続けた。
毎日ですから。
そうですね。
嫌になるときもあるでしょう。
そうですね。
逃げ出したいときもあるでしょう。
そうですね。
死にたくなるときもあるでしょう。
そうですね。
ここから一歩踏み出すだけで終われますよ。
彼がそう言うと、スグルは黙った。
勇気を出して一歩踏み出せば。ひとりじゃ怖いから、一緒に勇気を出せば…。
彼の言葉を遮るように、スグルは首を振った。
死のうとすることは勇気じゃない。生きようとすることが、きっと、勇気なんですよ。
スグルは彼をじっと見つめる。
踏み出さないように、諦めないように。
そのとき、ホームに電車がやってきた。
スグルは扉が開くのを待って、一歩踏み出した。