履き違えたときは履き直せばいい。
ジンクスなんていらない。
あっても邪魔なだけ。
増えれば増えるほど、どんどん窮屈になる。
だからなくした。
ジンクスなんてなくした。
でも、ひとつだけやってしまうことがある。
靴を右から履く。
これが、唯一の、ジンクス。
ジンクスというよりルーティーンに近い。
無意識に右から履いている。
それでも時折、左から履くこともある。
履いたときは気づいてないけれど、すぐに違和感を覚える。
何かが違う、と。
そんなときは決まって靴を両方脱いで、右から履き直す。
だって気持ち悪いから。
どうして右から履くようになったのか覚えていない。
靴下はどっちからでも大丈夫なのに。
パンツを履くときも大丈夫。
でも靴だけはダメ。
右からじゃないと、ダメ。
いつからこうなったのか。
きっと、右から履いたときに良いことがあったのだろう。
今となっては覚えていないレベルの、良いことが。
ジンクスなんてそんなもの。
誰かに言うわけでも、誰かに言われるわけでもない。
自分だけのルール。
掟。
何を守っているのだろう。
覚えてもいない良いこと?
人に自慢できるようなことなどなにもない自分の人生?
負けないため?
何に?
自分でもわかっていない。
でも、これをやらないと気持ちが悪い。
きっと怖いんだ。
今ある何かを失ってしまうことが。
それが何かは、わからないけど。
この時点でジンクスに依存している。
ジンクスに負けている。
そんなことに気づかずに。
ビルの屋上は風が強い。
少しでも気を抜くと落ちてしまいそうだ。
下を覗き込んでも、人の形を確認できない。
明かりに照らされた影が動いているだけ。
ずっと見ていると吸い込まれそう。
吸い込まれてもいいと思う。
風がもう少し強く吹いてくれれば、身を委ねることができるのに。
何を守っているのか。
それすらわかっていないのに、ジンクスを守り続けている。
一歩踏み出す勇気もないくせに。
覚えてもいない良いことなんかより、これから忘れることのない良いことを見つけにいけばいい。
ジンクスと、おさらば。
右から靴を履くジンクスとはお別れ。
ビルの屋上のフェンスを乗り越える。
揃えて置いてあった靴の前に立つ。
脱いだときは、もう履くことはないと思っていたのに。
風が強くなってきた。
冷えた足を浮かして靴を履く。
左から履く。
ジンクスと、おさらばできるのか。
このあと忘れることのない良いことに出会ったら、新たなジンクスが生まれてしまうのか。
左から履いたけど、覚えのない良いことのように、違和感を覚えない。
新たなジンクスが生まれたとしても。
きっともう、履き違えることはない。
階段をゆっくり降りていく。
いろんな影が動くところへ、足を踏み入れる。