コーヒーと大人になることの因果関係。
コーヒーが好き。
かといって本格志向なわけではない。
缶コーヒーが好き。
どこでも買えるから。
のどが乾いたら缶コーヒーを飲む。
水でもお茶でもなく、缶コーヒーを飲む。
ほどよく苦くてほんのり甘い、微糖、が好き。
本当は微糖が好き。
でも飲むのはブラックばかり。
理由はただひとつ。
ブラック飲んでるほうがカッコいいから。
正直、私には苦すぎる。
微糖のほうが美味い。
それでもブラックを飲んでしまう。
ブラック飲んでるほうが大人。
大人になるってそういうこと。
きっと誰もがむりやり大人にさせられる。
時がある程度経てばみんな大人にならないといけない。
ある年齢に達するとみんな大人にならないといけない。
誰が決めたわけではなく、そうなってる。
誰が悪いわけではなく、そうなってる。
いろんなことに気を遣って。
いろんなことに縛られて。
いろんなことを我慢して。
みんな大人にされちゃうんだ。
そうやってみんな生きている。
私も、君も。
だから私はブラックを飲む。
でも重要なのは、大人か大人じゃないか、ではない。
大人の反対は子供ではない。
大人かどうかは大人であると認めた大人が決めること。
なんだかよくわからなくなってきたけど、子供のままでいたいっていうわけではない。
大人になんてなりたくない、なんて言ったらいろいろ終わる。
大人になりたくないわけではない。
だから私はブラックを飲む
私のために、まわりのために。
そのほうがいろいろ上手く回っていく。
そんなことを考えるのも大人だから。
かといって飲みすぎには注意。
からだに悪いから。
からだに気を遣うのも大人だから。
からだを壊すといろんな人に迷惑をかける。
大人だってひとりでは生きていけないから。
誰かと一緒に回しているから少しでも円滑に回るよう、みんな考えている。
私も君も。
大人かどうかは問題ではない。
ブラックを美味しく感じられるかどうかが問題。
まわりに誰もいないとき、私はまだ微糖を選んでしまう。
大人にはなれなくてもいいけれど、ブラックを本当に美味いと思える私にはなってみたい。